秀吉に焼かれた智積院。
しかし、家康が秀吉ゆかりの報国社付属寺院を玄宥に与えます。
さらに秀吉が亡き息子のために建てた祥雲寺をも吸収合併し、そのみごとな庭園や障壁画を今に伝えています。
智積院
名称 | 智積院(ちしゃくいん) |
住所 | 京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964 |
宗派 | 真言宗智山派 総本山 |
本尊 | 金剛界大日如来 |
開山・人物 | 玄宥 |
創建 | 1601年 |
国宝 | 大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作 |
重要文化財 | 絵画等多数 |
国の名勝 | 智積院庭園(祥雲寺のものであった) |
拝観料 | 庭園おとな500円、宝物館おとな500円 |
公式サイト | https://chisan.or.jp/ |
総本山 智積院 · 〒605-0951 京都府京都市東山区東瓦町964番地
★★★★☆ · 仏教寺院
智積院の歴史
- 1130年 真言宗の覚鑁、高野山に大伝法院を創建。
- 1140年 覚鑁、紀伊国根来(現・和歌山県岩出市根来)に大伝法院を移し新義真言宗を打ち立てた。
- その後真憲坊長盛という僧が塔頭寺院として智積院を建立。根来山内の学問所であった。
- 1585年 豊臣秀吉と対立、全山炎上。当時の智積院の住職・玄宥は弟子とともに寺を脱出し、高野山に逃れた。
- 1601年 家康は東山の豊国社の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた
- 1615年 豊臣氏滅亡に伴い江戸幕府から隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺を与えられて吸収合併。山号を現在も根来に名を残す山の五百佛山、復興後の智積院の寺号を根来寺とした。
- 祥雲寺は、豊臣秀吉が3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提を弔う為、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたもの。
- 1705年 金堂建立。1882年(明治15年)に火災により焼失。
- 1947年 講堂焼失。
- 1975年 金堂再建。
- 1995年 講堂再建。敷地跡から祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことが改めて裏付けられた。
この近辺は巨大な岩のような石垣が続き、それは秀吉が作った方広寺の境界なのだそうだよ。
三十三間堂も中に飲み込んでいたという方広寺だけど、家康はその多くを削り取っていったんだ。
智積院のみどころ:利休好みの名勝庭園
風情のある名勝庭園は、祥雲寺の庭園であったものでしょう。
秀吉が作らせた『利休好み』の庭。
智積院のみどころ:国宝障壁画多数収蔵の宝物館
智積院の障壁画は宝物館に保管され、飾られているのは複製品です。
宝物館には長谷川等伯の「楓図」(国宝)、息子の久蔵作「桜図」(国宝)はじめ、「松に秋草図」(国宝)、「松に黄蜀葵図」(国宝)、「雪松図」(国宝)が収蔵されています。
まるで油絵のような胡粉の盛り上がりや、金箔のあでやかさ、岩絵の具の鮮やかな色彩は目がくらむようにきらびやかです。
智積院のみどころ:元あった場所には複製品が。国宝『楓』
長谷川等伯の息子・久蔵はわずか25歳の若さで桜図を書き上げ、翌年に急逝してしまいました。
この楓図は、等伯が悲しみを乗り越えて描いた傑作として評価の高いものです。
アクセス
京都駅から市バス 東山七条
京阪七条駅から徒歩10分
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