神護寺展みどころと空海の息吹|東京国立博物館で開催中

神護寺 持国天・増長天 観光
神護寺 持国天・増長天

現在東京国立博物館で開催中の『神護寺展』に行ってきました。

混雑状況と見どころ、効率の良い回り方をご紹介します。

神護寺展混雑状況

神護寺展

神護寺展

神護寺展は連日の盛況で、朝一入場を目指しても、開館の9:30にはすでに長い行列ができていました。

入場券売り場は大混雑ですので、ネットで買える電子チケットが便利です。

チケットは東京国立博物館入り口で掲示し、平成館入口でチェックが行われます。

QRコードがすぐ出せるようにしておくとよいぞ

神護寺展見どころ

会場内は撮影禁止ですが、唯一、通常は神護寺楼門に鎮座している持国天・増長天が撮影可となっていました。

運慶作とも噂のこの作品、今回はこの点についても調査が行われるようです。

神護寺 持国天・増長天

神護寺 増長天・持国天

薬師如来像

金堂に鎮座するご本尊は国宝。
真っ黒いお顔に赤い唇。『コワイ仏像』として有名ですが、台に載った170cmの像を下から見上げると、慈悲に満ちた優しいお顔に見えました。

台座まで一木彫像にこだわった力強い存在感は、圧巻の一言です。

両脇に立つのは日光菩薩・月光菩薩(重要文化財)。

ガラスケースに入ってるんだろうと思ったら、背面までじっくり拝見できる展示で驚いたよ!

十二神将

十二神将の展示はライティングによってすさまじい演出に(笑)

火焔の光背がおどろおどろしい影を投げ、壁一面を彩ります!!

両界曼荼羅(高尾曼荼羅)

前期は胎蔵界、後期は金剛界の展示ですが、これを納める櫃も巨大!

真っ黒い両界曼荼羅ですが、これを解析した画像の展示もあり、気が遠くなりそうな細部の書き込みまで堪能することができます。

絹本着色釈迦如来像(赤釈迦)

鮮やかな色彩と美しいきらめきは博物館のライティングあってこそかもしれません。

貴重な機会に堪能出来てラッキーでした。

絹本著色伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像(神護寺三像)

教科書でみた源頼朝の絵、実は足利尊氏の弟・足利直義であったかも、と言われています。
たしかに絵で見る足利尊氏にそっくりなような気も…

ともあれ実物を見ると「こんなに大きな絵だったんだ!」とびっくりします。

細ーーい線で丁寧に描かれたお顔は繊細そのもの。また衣は黒一色ではなく、地模様が丁寧に描かれています。

神護寺展 おすすめの回り方

入場と同時に平成館へと押し寄せる人の波。

今回は東博本館からじっくり回ることにしました。

伊藤若冲 玄圃瑶華のうち紫陽花・冬葵

伊藤若冲 玄圃瑶華のうち紫陽花・冬葵

本館は1階にジャンル別展示として彫刻、陶磁器等、2階には日本美術の流れとして様々な絵画や甲冑、着物等の展示があります。

縄文時代の火焔型土器とかハニワも見ごたえあったな!

葛飾北斎 鯉の滝登り

葛飾北斎 鯉の滝登り

外国人の来館も多いのですが、写真を撮りながら(一部撮影不可もあり)自由に見て回ることができました。

一通り堪能してから神護寺展に向かえば、ラッシュが過ぎた状態で観覧することができます。

神護寺とは

名称 高雄山 神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)
住所 京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5
宗派 高野山真言宗
本尊 薬師如来
開基 和気清麻呂
創建 824年
国宝 木造薬師如来立像、木造五大虚空蔵菩薩坐像、絹本着色釈迦如来像(赤釈迦)、紫綾金銀泥両界曼荼羅図(高雄曼荼羅)、絹本著色伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像(神護寺三像)、絹本著色山水屏風、梵鐘、灌頂歴名(空海自筆)、文覚四十五箇条起請文
重要文化財 大師堂、絹本著色真言八祖像8幅、木造日光菩薩・月光菩薩立像ほか
拝観料 大人1,000円
公式サイト http://www.jingoji.or.jp/
神護寺 · 〒616-8292 京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5
★★★★☆ · 仏教寺院

歴史

769年 称徳天皇はお気に入りの僧・道鏡を天皇にしてよいかどうか、和気清麻呂(わけのきよまろ・733年 – 799年)を九州の宇佐八幡宮へ派遣した。宇佐から戻った清麻呂が「宇佐八幡は、臣下の者が皇位に就くことを望んでいない」と奏上したことが道鏡の怒りにふれ、清麻呂と姉の和気広虫(法均尼)はそれぞれ大隅国と備後国へ流罪となった。

770年 称徳天皇が崩御し、天皇の信望厚かった道鏡は左遷され、入れ代わるように清麻呂と広虫は許されて都に戻ってきた。

781年 和気清麻呂、神願寺を建立。所在地は奈良・京都両方の説があり、決着していない。

 

宇佐八幡のご神託ということで建てられた寺だけど、772年に亡くなった道鏡の呪いを避けるという目的もあったんだろうね!

同じころ、高雄山寺も現在の神護寺の近くに建立したと思われる。

802年 和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄高雄山寺に招請し、最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行った。

809年 唐から戻った空海が、和気清麻呂・最澄の助力を得て高雄山寺に入る。

812年 空海、高雄山寺にて灌頂(密教の重要な儀式)を行った。
この時灌頂を受けた者(最澄を含む)の氏名を書き付けた空海自筆の名簿(灌頂歴名)が現存し、国宝に指定されている。

824年 神願寺と高雄山寺を一つにし、神護寺とする

939年 平将門の乱。空海が刻して神護寺の護摩堂(明王堂)に奉安されていた不動明王像を、遍照寺の寛朝大僧正に命じて下総国公津ヶ原(現・千葉県成田市並木町)の堂宇に捧持させ、三七日(21日間)朝敵調伏の護摩を修せしめた。

940年 乱の平定後に朱雀天皇は寛朝が帰京しようとしたが不動明王像が動こうとしないとの報せを聞き、公津ヶ原に東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、神護新勝寺の寺名を下賜し勅願寺として創建させた。扁額「明王堂」は五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)による筆。

へぇ~大人気の成田山のお不動さまは、神護寺から運ばれたんだね!

994年・1149年 火災により焼失

1168年 文覚(もんがく)・神護寺を参詣、薬師堂・納凉殿・不動堂などを再建

1173年 文覚、後白河法皇に荘園の寄進を強要し、かえって法皇を激怒させてしまい、伊豆国に流される。その伊豆国で文覚は流人の身であった源頼朝に平氏への挙兵を迫ったという。

1178年 文覚、恩赦によって帰京

1182年 文覚、後白河法皇に再び直訴。法皇は訴えを聞き入れて荘園の寄進を行い、更に源頼朝の援助を受けて再建事業が再開される。文覚は神護寺再建事業の傍ら、頼朝と法皇の連絡役を務めるなどの政治的活動を見せている。

しかしその後失脚し、流罪になった先で生涯を終えている。

ショップ等

Tシャツ、トートバッグ、アクリルスタンド等々、『神護寺愛』溢れるグッズが盛りだくさん!

まとめ

神護寺は京都のはずれだし、ご本尊を拝めば行かなくてもいいかな…なんて考えながら見に行った『神護寺展』ですが、むしろ逆効果。

紅葉の時期に訪れて、400段の石段を登ってみたいと思うようになりました。

会期中にぜひ、足を運んでみてください。あ

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