ねねが秀吉の菩提を弔うために家康におねだりした高台寺。
ここにはねね自身の遺体が今も眠っています。
ねねが生前暮らした『高台寺御殿』は圓徳院(圓徳院)としてその姿を今に伝えています。
高台寺(こうだいじ)
名称 | 高台寺 |
住所 | 京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526 |
宗派 | 臨済宗建仁寺派 |
本尊 | 釈迦如来 |
開山 | 弓箴善彊 |
創建 | 1606年 |
人物 | ねね |
重要文化財 | 門、霊屋、開山堂、傘亭(安閑窟)および時雨亭(附:土間廊下)、観月台、絵画等多数 |
国の名勝 | 高台寺庭園 |
拝観料 | 大人600円 |
公式サイト | https://www.kodaiji.com/index.html |
高台寺の歴史
1598年9月18日 豊臣秀吉死亡
1599年 秀吉の正室・『北政所(きたのまんどころ)』ねねは京都へ
1600年 関ケ原の戦い
1603年 ねね、後陽成天皇から『高台院』の号を勅賜される
1605年 家康の支援を受けて、秀吉の菩提を弔うため高台寺を建てる。
1606年 完成。
1614年 大阪冬の陣・1615年大坂夏の陣にて淀君、秀頼死亡
ねねは甘え上手で、主君の織田信長に秀吉の浮気を訴えて、こんな手紙を貰ったようじゃよ。
「…この前久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。藤吉郎(=秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あの『ハゲネズミ(=秀吉)』があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい…」
織田信長からねねへの手紙 wikipediaより
ねねには子がいなかったけれど、秀吉の部下や親族の子どもたちや、秀吉の側室・淀君の子の秀頼も可愛がっていたそうですね。
家康の側に寝返っていたという都市伝説もありますがどうなんでしょう?
なぜ家康が高台寺建立を支援したか?という点から、ねねと家康が仲が良かったのではないかと言われていたのかもしれぬのう。
しかし家康は、秀吉の死後、本願寺の隣に東本願寺を建てて分裂させたり(1602年)、豊国廟を破却したり(1615年)、秀吉がわが子鶴松を弔うために建てた祥雲寺を智積院に吸収させたり(1615年)と豊臣家滅亡には容赦ない行動をとったのじゃ。
ねねは美人で人柄がよかったそうじゃから、さぞかし魅力的なお人であったのじゃろう。
高台寺の見どころ
高台寺・台所門(ねねの門)
ねねにあやかって、この門をくぐるとお料理が上手になれると言われています。
料亭らしきところの名の入った提灯がたくさん並びます。
高台寺・臥龍廊(がりょうろう)
開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ屋根付きの階段で、臥龍池に掛かる回廊。
龍の背に似ているところからこの名が付けられています。
高台寺・方丈
本堂。創建当初の方丈は伏見城の建物を移築したものでしたが焼失。1912年再建。
方丈庭園は 小堀遠州作。
高台寺・霊屋(おたまや)
霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを『高台寺蒔絵』と呼びます。
北政所所持と伝えられる蒔絵調度類も多数。
霊屋は、秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峰の豊国廟に向けて建てられています。
そして、安置されているねねの像の地下にはねね自身の遺体が
開山堂(重要文化財)と観月台
開山堂の手前の『観月台』は、伏見城から移設されたもの。
生前の秀吉とねねが、仲良く月を愛でたであろうと想像できますね。
庭園内の花頭窓が優美な開山堂は、もと高台院の持仏堂だったもの。
堂内は中央奥に中興開山の三江紹益像、向かって右に高台院の兄・木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の像を安置しています。
この堂の天井は豊臣秀吉の御座舟の天井と、高台院の御所車の天井を用いたもの!
天井画の「龍図」は狩野山楽の作です。
茶室
笠亭 千利休 → 伏見城 → 移築と言われますが、確証はありません。
時雨亭(二階建ての茶室)小堀遠州の作?
アンドロイド観音
2019年、教化堂に『アンドロイド観音マインダー』が安置され、般若心経の教えを「空を知ることで煩悩から解き放たれる」と説きます。
御開帳は土日・祝日の10:30~12:00 と 13:30~15:30。
竹林
みごとな竹林もみどころ。
異世界に迷い込んだかのような錯覚に陥ります。
お抹茶をいただける茶店
お隣の圓徳院(えんとくいん)の拝観時間まで、ゆるりとお茶をいただきました。
写真を撮ることも忘れ、お抹茶と小さなお饅頭をペロリ。
高台寺掌美術館(しょうびじゅつかん)
高台寺で北政所の生活を彩った、様々な蒔絵の調度品や絵画、その他の美術工芸品をじっくり見ることができます。
高台寺境内マップ
圓徳院
圓徳院の歴史
1605年 ねねは高台寺の西側に、自らの屋敷と甥の木下利房の屋敷を造営することにしました。
1606年 伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭をこの地に移築して自らの邸宅・高台院屋敷としました。
1624年9月6日 ねね高台院屋敷で亡くなりました。
1632年 高台院屋敷は木下利房によって、高台寺の三江紹益を開山として高台寺の塔頭・圓徳院に改められ、以降は木下家の菩提寺となります。
1795年 高台寺の火災により、北政所化粧御殿を高台寺の小方丈にするために解体、移築。
1863年 北政所化粧御殿、放火により焼失。
圓徳院のみどころ
秀吉公好み手水鉢
圓徳院(えんとくいん)の門をくぐると、打ち水のあとが感じられます。
おもてなしの心が伝わり、清々しい気分にさせていただけました。
『秀吉公好み手水鉢』と立て札があり、『秀吉が西尾家に世話になったお礼として贈った手水鉢。西尾家は今川義元の親戚にあたる。のちに西尾家から圓徳院に寄贈』と説明書きがありました。
利休を取り立て、黄金の茶室を作り(1585年)、そして利休に切腹を命じた(1591年)秀吉。
秀吉公好み…の文字にその数奇な人生を思ってしまいます。
圓徳院での三つの体験
見事な障壁画の向こうでは、三つの体験が待っています!
- 五体投地
- 写経
- 写仏
お寺の方が丁寧に教えてくださり、心を落ち着けて体験することができました!
圓徳院庭園
伏見城から移した北庭園には、各地の大名が秀吉に贈った庭石が。
開放的な書院から眺めることができます。
『桧垣の手水鉢』は北庭とともに伏見城から移設されたもの。
室町時代の石の宝塔の笠石を横に立て、軒の部分を深く切り込み、水穴を掘った珍しい手水鉢です。
水穴の左右が柱状になり、これを垣根の柱に見立てて檜垣の名が付きました。
説明書きより
京都検定にも出題されたという有名な手水鉢です!
白浪の中から龍が現れる『白龍』、華麗な四季の移ろいを描く『雪月花』。
間近で拝見できるのが素晴らしい。
長谷川等伯1589年の作、『山水図襖絵』はガラス越しの拝観…と思いきや、これはデジタル再現のものだそうです。(綴プロジェクトについてはこちら)
大徳寺塔頭 三玄院には白地に白銀の『五七の桐』の襖があり、住職・春屋宗園(しゅんおく・そうえん)が留守の隙に、32枚の襖に書き上げてしまいました。
その後、圓徳院に移されたこの襖ですが、保存のために原本は美術館で保存されています。
三玄院の真っ白に銀の紋の入った襖は、長谷川等伯の生まれ故郷、石川県七尾市の雪景色を思わせたのかもしれないって…ロマンを感じるね!
アクセス
電車
京都駅から 約20分
京阪 祇園四条駅から 約10分
阪急 京都河原町駅から 約15分
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